もう少し早く気づけていたらね
060:お願いだから逃がして、あなたに掴まるわけにはいかないの
広告灯もけばけばしい繁華街の一本裏へ入るだけでその真っ当性はガタ落ちする。怪しげな店や香りが漂い残飯を詰めたかごが放置され、それをあさるのは犬猫だけではない。リフレインと言う麻薬が蔓延し、大事そうに隠し持つ小壜はたいていそれだ。注射器があればなおいい。すぐさま薬でトブことができる。だがその先に待つのは破滅でしかなくそれでも人々は一時の夢と甘く香る破滅に引き寄せられていく。卜部はひょこひょこと路地裏を冷やかして歩いた。ちょっとした効能を備えた香草を丸めた煙草や剥き出しの果実、菓子なども露店には並んだ。少し離れた位置へ行けば運河があり船が行き交う。そこだけはどこかまるで時代も世界も全てが違ってしまったかのように錯覚を起こす。現実を忘れるにはまたとない場所だ。だからというわけではないが卜部は何度かこうした場所へ出入りする。直属の上司である藤堂にはきつく戒められるが当人に止める気はない。そもそも卜部の生まれは高貴ではない。底辺を這うことを初めに覚えた。だから欲望と熱と醜かいなその世界は卜部にとって胎内に等しい。卜部はここで生まれてここで育った。軍属になっためぐりあわせを喜ばないが悲観もしない。それでも時折息苦しくなるとこうして脚を運んでしまうのだ。
喘ぐ声がする。卜部の耳が聞き咎めた。嬌声くらいそのあたりにいくらでも転がっているのにそれは違う。卜部はそっと軍属仕込みの体捌きで気配をけして様子をうかがう。壮年の男性がさらにもう少し年配の男に抱かれている。同性同士の絡みあいなどここでは問題にされない。現に誰も、目線を向けるものさえ稀だ。問題はその両者を卜部が知っているという点だった。ふくよかな体形で男を抑えつけて抱いているのは枢木ゲンブだった。抑えつけられて抱かれているのは直属上司の藤堂だ。ゲンブが特別に可愛がる猫がいるという噂は黙っていても耳に入った。なるほどこれかァ。卜部はそのまま事態を見つめていた。藤堂を助ける気は毛頭ない。そもそも卜部が現場を抑えて事が収まるような性質のものではないのだ。そのくらいは卜部にだって判る。下手を打てばその被害は藤堂へ向きかねない。ゲンブはひとしきり腰を揺すってから藤堂を解放した。自分は大して身なりも乱さずすぐさま整えると往来へ出てくる。身をひそめて卜部がそれをやり過ごす。すぐに黒塗りの車がつけられ、紅いテールランプの尾を引いて走り去る。その車には毒々しいほど紅い唇の女が肌をあらわに車に乗っているのを卜部は何とはなしに目でとらえていた。
「女ァいて男のケツ掘るなんて元気な爺だなァ」
嘆息交じりに呟く。その腕が思い切り引っ張られる。胴体部がくの字になったと思うほど強い引っ張り方だった。その勢いのまま地面の上を背中で滑った。上から覆いかぶさられる。両手首をベルトで捕らえられたと気づいたのは縛りあげられた後だった。
「高みの見物か、巧雪」
卜部の下の名を呼ぶ。妖艶に笑う藤堂がそこにいた。凛と芯の通った性質のようにしっかりとした眉筋と通った鼻梁。鋭く睥睨する切れあがった双眸は灰蒼に潤んでいまにも雫がこぼれそうだ。濡れたように光る唇に色香を感じて卜部は思わず目を逸らす。先程まで抱かれていた名残が色濃く残っていた。ふぅ、と卜部は息をついて力を抜いた。過剰に反応すれば藤堂の感情の爆発を招きかねない。無理矢理犯される可能性がある以上それは極力避けたかった。卜部は経験として同性同士の交渉が無理矢理であった際の惨事は身にしみている。突っ込む方が多少で済むが突っ込まれる方は完全に肉体が崩壊するかのような大打撃を受ける。単純に考えてそれは避けたかった。戦闘はいつ始まるか判らないし卜部とていつ呼び出しが来るともしれないのだ。
藤堂は卜部の頬に手を這わせたり喉元を食んだりと戯れの様な接触を繰り返す。
「抱かれている私を見た気分はどうだ。普段上からああしろこうしろと言う私が泣いて犯されて気分は良くなったか?」
「そこまで悪趣味じゃあねェですけどね。あんたの情人が誰でもいいッすよ。俺には関係ねェですからね。あんたっこさァどうだったんだ人に見られて感じたのかよ」
はン、と鼻で笑う。卜部の頬を藤堂の右手が捕らえた。途端に口の中が燃えるように熱くなり液体がどっと溢れる感触と何か固い欠片の気配がする。口をむぐむぐ言わせていたが堪えきれずに卜部は横を向いて血を吐いた。歯を食いしばる暇もなかったせいか口の中が切れている。吐きだされた白い破片は奥歯だ。鍛え上げられた軍属の男の一撃である。奥歯一本で済むならましかもしれない。
「…手加減、ねェなぁ…歯ァ欠けちまったよ」
歯医者ァ嫌いなんだよなァと卜部がうそぶく。卜部の体は打撃を受けても変化を刻々ときたしている。藤堂が触れた場所からとろけるような快感が広がる。卜部は藤堂を憎からず思っていない。好きでも嫌いでもないというのが自負だが体はそうはいかない。働きかけてくれる藤堂を、卜部の体は友好的に受け入れた。熱の発散を伴うその接触を覚えた卜部の体は時折手当てが必要なほど藤堂を求めてしまう。だから卜部は根なし草の様な生活から藤堂直轄の四聖剣に所属を極めたのかもしれない。
卜部の抵抗が止んだのを見て藤堂が小首を傾げた。それは幼い子供のように頑是なく愛らしく無垢で無邪気で残酷だった。藤堂の固い鳶色の髪がパラパラと額を隠す。藤堂は鬱陶しそうにそれをかきあげて額をあらわにする。子供っぽいような仕草が艶っぽい人だと思う。藤堂は凛とした冷気を漂わせるくせに一線を越えれば驚くほど妖艶に微笑みかけてくる。それは相手を試しているのかと思うほどに痣とくそれでいて秘匿性さえ帯びた。判るものだけ判れば好いという気質が窺える。藤堂は万人の合意を得ようとはしない。抵抗勢力さえ受け入れた状態を受けれいて計画をへて行動に移す。藤堂が優しく唇を重ねた。血で強張ってパリパリと剥離する卜部の唇を湿すように舐め拭う。
吐き気がする。同時にその先にあるものが何かを知っている。卜部の感情としての在り様と体の在り様がすれ違う。何かに囚われるなんてまっぴらごめんだ。それでも卜部の体は藤堂に対して従順に拓いて行く。
「俺はあんたが嫌いだ」
「そうか。だが抱かれても良いと言っているぞ」
それは卜部も気づいている。四肢や体の末端が徐々に熱を帯びている。藤堂の働きかけに応えている証だ。これ以上働きかけがあれば卜部の体の方が藤堂の刺激や接触を欲するようになるだろう。卜部の自我など瓦解する。あははははははは、と卜部が喉を震わせて笑った。細い首が喉仏を震わせ、その痩せた背をしならせて笑う。抑えつけている藤堂の方が不思議そうに卜部を見下ろしている。
「そうかもな。俺はくれるもんはみんなもらうんだよ、そういう生活だったからなァ」
あんた知ってるか、蝉って案外美味いぜ。藤堂が顔をしかめる。それを見て卜部はさらにおかしげに嗤った。
「何だよ、俺もうあんたに掴まってるみてェだなぁ」
肩をすくめるように傾げて見せれば藤堂はふわりと笑い返す。
「先へ進んでもいいということか?」
「言わせる野暮かよ、あんたァ」
しかも両手拘束しといてやっていいかもねぇもんだ。笑い飛ばしながら卜部の長い脚が藤堂の腰に絡む。藤堂の手に体を押し付けてくる。その様はどこか野良猫がなついてくるさまと酷似した。
「ほら、あんたに抱かれてェって言ってンだ。抱いてくれねェ腑抜けか、あんたァ」
「その言葉、後悔させるぞ」
精悍に整いながら妖艶に笑う藤堂には尋常ではない色気がある。それは穢され続けて打ちのめされて地べたを這って、泥水をすすったもののそれだった。だから卜部は藤堂に体を開く。
俺もお前も
底辺這いずりまわって
ぼこぼこにされて
滅茶苦茶に穢され続けた
判るよ 同類だからな
だからあんたから逃げなきゃ俺は俺を
保てない
疑似餌で呼び寄せて逃げる
藤堂の妖艶な笑みに卜部は凄絶なほど蓮っ葉に口元を歪めてみせた。
「抱いてくれよ」
体くらいくれてやる。だけど精神はやらねェ。
《了》